問題Ⅰ 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。答えは、1234から最も適当なものを一つ選びなさい。秋に入ると学校では、①読書週間という奇妙な週がやってくる。普段は図書館に足を踏み入れもしない子どもたちが、みんな指定の図書を探して、嫌々やってくるのを僕は不思議に眺めていた。読みたくない本を読んで感想文を書け、と先生から指令がくだるのだ。 先生に言われなくても、僕は昔から本の虫だった。読書週間の標語を読むと、「読書は世界の見える窓」「本は心の栄養」などと利益を謳(うた)った文句が並んでいる。先生は、読書をする子はよい子で、頭がよくなると自信を持って勧めていた。頭をよくするのは教育者の仕事だ。その義務を忘れて本に子どもを教育してもらおうとするのは(注1)怠惰(たいだ)な職務放棄にすぎない。僕は(注2)一発でこの先生の能力を疑った。僕は所謂(いわゆる)アタマのいい子だった。子どものしがちな無茶なことはせず、大人の命令に逆らわない(注3)従順(じゅうじゅん)な児童だった。教室の壁には誰が何冊本を読んだか、という(注4)営業マンのようなグラフが作成され、能力を競っていたように思う。馬鹿馬鹿(ばかばか)しいと嗤(わら)っていると(注5)白羽(しらは)の矢が僕に刺さった。「彼は本を読むから成績がいいんです!」 先生は僕を象徴にして読書を推進しようとしている。②それは大きな間違いだ。僕の成績がよかったのは普段真面目に授業を聞いているからだし、きちんと家で勉強していたからだ。他の小学生は(注6)のびのびと育っていて、誰も勉強などしないから、差が出るのは当然のことだった。 読書をすれば賢くなるという(注7)幻想(げんそう)は、どうして出来上がったのだろうか。僕はその誤解の(注8)根源(こんげん)を子どもたちに見た。いつも図書館に現れない子どもは無理に広げた本を前に(注9)煩悶(はんもん)しているではないか。これはほとんど(注10)拷問(ごうもん)に近いものがある。( ③ )彼らは勉強の姿勢で本を読んでいるのだ。こんな読み方では楽しくないだろう。本の楽しみとは、ここではないどこかに飛んでいける冒険につきる。旅行の楽しみと読書は近いものがある。僕は本で冒険をし、知らない世界に旅をした。(中略)人は誰もが「もうひとつの世界」を夢みる。新しい環境、新しい政治、新しい自分、誰もが現実の中に小さな(注11)違和感(いわかん)を抱えて、変化を望み、そしてこの現実は簡単に変わることがないと諦(あきら)めている。そんなとき最も安価(あんか)で確実な変化をもたらしてくれるのが、読書なのだ。 読書とは教育ではなく、(注12)世知辛(せちがら)い現実を捨てて、豊かな世界に耽(ふけ)ってしまう人の(注13)性(さが)であり、現実を忘れさせる合法(ごうほう)的な(注14)麻薬(まやく)である。「彼らはまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」と言う大人がいないのが残念である。 (池上永一『やどかりとペットボルト』による)(注1)怠惰(たいだ)な:するべきことを怠けてしない(注2)一発で:この一回のことで(注3)従順(じゅうじゅん)な:指示に素直に従い行動する様子(注4)営業マン:営業を担当する社員(注5)白羽(しらは)の矢が刺さる:多くの人の中から特に選ばれる。普通「白羽の矢が立つ」と言う。(注6)のびのびと:自由に(注7)幻想(げんそう):ここでは、誤った理解や考え(注8)根源(こんげん):もともとの起こり(注9)煩悶(はんもん)する:深く悩み苦しむ(注10)拷問(ごうもん):体に苦痛を与えたりしてひどく苦しませること(注11)違和感(いわかん):自分の気持ちや感覚に合わない感じ(注12)世知辛(せちがら)い:暮らしにくい(注13)性(さが):生まれたときから持っている性質(注14)麻薬(まやく):習慣性があり使い続けると中毒になる物質 ( ③ )に入る最も適当な言葉はどれか。
A. しかし
B. ゆえに
C. ただし
D. つまり
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問題Ⅱ 次の(1)から(3)の文章を読んで、それぞれの問いに対する答えとして最も適当なものを1234から一つ選びなさい。(1)カナダの作曲家シェーファーは、音環境をサウンドスケープという視点から捉(とら)えることを(注1)提唱(ていしょう)し、運動を展開している。サウンドスケープは“音の風景”と訳すことができるだろうが、これは、都市空間をはじめ、あらゆる環境の中で不愉快な雑音が我々の生活を害するようになった現在、音環境を含めて生活のすべての面で快適性を高めたいという社会的(注2)ニーズの表れであろう。 日常生活を妨げる音をできるだけ防止するために、その場時間状況に応じて適切な環境音楽が流されている。環境音楽は、快適性を音環境の中に取り入れたものといえる。現代の文明は騒音をますます増大させているが、同時に最新の技術によって発生騒音を少なくする努力も大いになされるだろう。 しかしながら、我々は生活の中で、環境音楽と考えてかえって不必要な音や音楽を流しすぎていないだろうか。いや、たれ流しているといってもいいぐらいだ。ドイツの大指揮家カールベームは、筆者も何回となく来日の折に聴(き)いているが、ある時東京のデパートのエレベーターに乗り、そこに流れていたドイツの古典音楽を聞いて非常に憤慨したそうである。(注3)いとも安易にクラシック音楽が東京の町中に氾濫(はんらん)していることにベームは(注4)業(ごう)を煮やしたのだろう。遠山一行(とおやまかずゆき)さんのような批評家がいう、「クラシック音楽は他者との出会い」という(注5)厳しいストイックな見方と現実は大きく違ってしまい、我々はあまりに(注6)イージーに音楽を氾濫させていると筆者は思う。そして、それが非常に商業主義と結びついていることが多いと筆者は(注7)危惧(きぐ)しているのである。 (江口文陽尾形圭子須藤賢一『生活環境論』による)(注1)提唱(ていしょう)する:自分の意見や考えを人々に示して呼びかける(注2)ニーズ:必要性(注3)いとも:大変、非常に(注4)業(ごう)を煮やす:思うように行かず、腹を立てる(注5)ストイックな:欲求や楽しみをあえて抑える様子(注6)イージーに:安易に(注7)危惧(きぐ)する:心配する 本文によると、環境音楽とはどのようなものか。
A. 日常生活の不快な音をさえぎるために流されているもの
B. 豊かな自然に囲まれた環境の中で聞くことができるもの
C. 筆者が日常生活の中で安易に聞かされているもの
D. 現代文明が作り出した環境の中から自然に生じたもの
問4 他人を[12]侮辱するような[13]行為をすれば、[14]訴訟を起こされ、[15]償いを求められることもある。 行為
A. こうぎ
B. こうい
C. ぎょうぎ
D. ぎょうい
(3)桜が終わり、さまざまな春の花がいっせいに咲きそろうころになると、少しばかり憂鬱(ゆううつ)になる。(注1)自分をもてあます。例年春が終わるまでは憂鬱に沈みこんで過ごすのだが、先日ちょっと①目を見開かされることがあった。見開いてくれたのは、小学生の少年である。彼と私はときおり「世間話」をする仲だ。あるとき彼は、「あのね、おばちゃん。ぼくね、自分がへんな顔してるんで、いやだったんだ」と始めたのだ。驚いた。彼を知ってから何年かになるが、そんなことを思っているとは、(注2)つゆ知らなかった。彼の顔を私は(注3)まじまじ眺めた。なるほど平凡な、これといった特徴のない顔である。へんな顔だちだろうか。わからない。子供らしさがかがやいている顔ではあるが。「洗面所の鏡を見るたびにね、悲しかったの」。そうなの、と私は( ② )に答えた。話がどう展開するのか、緊張していた。彼はごく真剣である。「見るたびにへんな顔、って思ってた」へんじゃないと思うけどなあ。私はさらに( ② )に言った。「いや、へんだった。へんなんで、あんまり鏡を見ないようにしてた」。うーん。「そしたらね、一年前に引っ越した家の玄関に大きな鏡があったの」。うん。「毎日何回も、玄関で自分を見ることになるんだよ。③いやだった。ところがね、ぼく」。そこで彼は(注4)照(て)れて言葉をとぎらせた。ところが?「そのうち自分の顔をへんじゃないと思うようになったんだ。けっこう可愛いって思うようになったんだよ。」そうかあ、そうなのかあ。よかったね。「よかったよ」。彼は嬉しそうに頷(うなず)いた。でもなぜ、と私は聞いた。なぜ?「あのね、毎回顔見るたびに、へんじゃない、へんじゃない、って自分に言い聞かせたんだ。そしたら、いつの間にか、へんじゃなくなったんだよ」。ふうん、と私はうなった。「ずっとへんだったら、自分がかわいそうでしょ。だからね、ぼく、一生懸命言い聞かせたんだよ」。そう彼は話を(注5)しめくくったのである。教えられてしまった。憂鬱な気分にひたりこんでいる自分が、恥ずかしかった。桜は散り、月日は過ぎ去る。(注6)無為(むい)に(注7)うつうつしていてかわいそうなのは、じつに自分自身なのであった。(川上弘美 『なんとなくな日々』による)(注1)自分をもてあます:どうしていいかわからなくなる(注2)つゆ知らない:少しも知らない(注3)まじまじ:視線をそらさないでじっと(注4)照(て)れる:恥ずかしそうな顔をする(注5)しめくくる:話をまとめて終わる(注6)無為(むい)に:何もしないで(注7)うつうつ:心がふさいで楽しくない様子 ( ② )に入る最も適当な言葉はどれか。
A. 慎重
B. 冷淡
C. 愉快
D. 親切
(2)家事労働は、やってみると案外と簡単なものだ。嘘だと思う男性諸君は、一度やってみるといい。今はいい洗剤があるから皿洗いは楽だし、研(と)いだ米に分量の水を入れて、スイッチを押せば自然に炊きあがる電気炊飯器(すいはんき)という便利な器械もある。やる気になれば男だって一人で飯をつくり、暮らして行けないことはない。わが家は、妻が毎日仕事に出かけ、僕は家で仕事をしているから、生活のパターンがふつうのサラリーマン家庭とは逆になっている。そうは言っても、仕事から帰って来た妻が食事を作り、後片付けもしていた。それを見て、大変そうだなと思い、後片付けくらいはしてやるよと気軽に台所に立ってみた。ところが、やってみると案外に楽しかった。汚れた食器が次々にきれいになっていくのはなかなか気持ちのいいものだ。わずか10分か15分で、ひと仕事終えたという労働の充実感も味わえる。この、ひと区切りつくというのが家事労働の面白いところかもしれない。60歳を過ぎた僕がこんなことを言うと、同年輩(どうねんぱい)の(注1)亭主(ていしゅ)族からはなんと(注2)甘っちょろいと思われるかもしれない。20代30代からは、なんで今さらそんなことに気づいたのだと言われそうだ。「最近の女性は耐えるということを知らない」などと世間では言っている。確かに昔に比べると、我慢するということが少なくなったようだが、これは( )ことだと思う。昔の女性が我慢していたのは、経済力がなくて夫に養われているという意識があったからだろう。今は、仕事を持ったり(注3)パートタイムで働いたりして、ちゃんと収入を得られるようになった。しかも、亭主が汗水たらして働いていても、たいして高い給料をもらっているわけではないのだという現実もわかってくる。(中略)わが家の場合、今の若夫婦のように、権利だ義務だと分けて、家事を分担しているのではない。なんとなくそういう具合になっている。とはいえ、サラリーマンを続けていたら、なんとなくそういう具合にはならなかっただろう。権利だ義務だというのは、(注4)押しなべて世間に広がらなくてはならない決まりである。家庭にそんなものはいらない。家庭にあるのは(注5)流儀(りゅうぎ)だろう。サラリーマンにはサラリーマンの家庭の、わが家にはわが家の流儀がある。おおまかであって、伸縮(しんしゅく)自在だけれども、ひとつの流れになっているという曖昧(あいまい)な流儀(りゅうぎ)が、おおまかな僕には似合っている。(常盤新平 『ベストパートナー―「夫婦」という名の他人』による)(注1)亭主(ていしゅ):夫(注2)甘っちょろい:考えが甘い(注3)パートタイム:正規の雇用ではない短時間の労働(注4)押しなべて:全体にわたって(注5)流儀(りゅうぎ):物事のやり方、手法 筆者は、家庭における夫婦の役割は何によって決まると考えているか。
A. それぞれの家の事情に沿った独自のやり方
B. 家事は女の仕事だという伝統的な社会規範
C. 世間全体に受け入れられるべき価値基準
D. 家事は男女が平等に分担すべきだという考え方